|エピソード8|@喫茶P「センチメンタルジャーニー」|

 

梅雨の雨が終わりの兆しを見せ、いよいよ蝉が朝から鳴き始めた午後、今日もいつも通り店を開けゆっくりとレコードの選盤をしていた。

暑くなりそうな初夏の日差しが大きな窓からギラギラと差し込んでいる。

その時、店の重いドアが開きパナマ帽にジャケット姿の老齢の紳士が入ってきた。

「やってますか?」

2000年代、ジャズ喫茶の客は多くはない。うちも同様に静かな営業だったから店内を見て尋ねたのだろう。

「やってますよ。いらっしゃいませ、どうぞ」

その紳士は、椅子に腰掛け帽子をとり、珈琲を注文した。淹れたコーヒーを出すと「リクエストはできますか?」と聞いた。

もちろんできると答えると「センチメンタルジャーニーをお願いします」と。

 

私は、心の中で「センチメンタルジャーニー???」

 

珍しいリクエストだった。やや往年のアメリカンポップスという印象が濃いし、うちは特に5、60年代のモダンジャズが売りだ。

まあ、聴きたいということだし、有名曲だから何かあるだろうとABC順のレコード棚を探したけれど…ない。

センチメンタルジャーニーが入ってるボーカルのアルバムもない。

それで慌ててデータベースを見ると一つだけあった。

誰だったかは忘れてしまったけれど確かピアノトリオのアルバムだった。

 

【Sentimental Journey】

 

「インストでもいいですか?」と聞くと全然かまわない。という。

静かな店内にピアノの音が響き始めた時、その紳士が静かに話し始めた。

 

「この曲は思い出の曲でね。僕はね、小さい頃父の仕事でカナダに家族で住んでいたんだ。

でも戦争がどんどん酷くなって、いよいよ日本の敗戦が現実的になってきてね、慌ただしく帰国することになったんだ」

 

「終戦の直前に急に、母がまだ小さい僕と兄を連れて先に船で帰ることになってね、引揚船ではないけれど今考えると同じような境遇の人がたくさん乗ってた」

 

「僕は幼くて当時の長い船旅がただ退屈で、でも船に楽団が乗船していてずっとセンチメンタルジャーニーを演奏してくれていたんだ。帰国するまでずっと。本当にこの1曲しか演奏しなくて(笑)

当時はプロの演奏家は僅かだったから、もしかするとこの曲しかできなかったのかもしれないね」

 

私には遠い歴史の話が、思いがけず肉感を持って目の前に迫ってくるような感覚だった。

 

「退屈な僕をなだめるために母は、時々船の甲板に連れて出て海を見せてくれてね。

でも、母はずっと厳しい顔で海を見つめてた。小さくても覚えてるくらい印象的でね。先行きのことを考えていたのか、日本の敗戦が悲しかったのか、今はもう確かめる術はないけど」

 

「そんな時もセンチメンタルジャーニーが聴こえてくるんだよ。幼い僕でもメロディを覚えてしまうくらいに何度も。

それで後になって、この曲がセンチメンタルジャーニーだって知ったんだよ」

 

その日のお客様はこの紳士のみで、一度聴き終わったけれど「センチメンタルジャーニー」が入ったアルバムがもう他にないので

「もう一度かけましょうか?」

と尋ねると、にこりと笑って

「お願いします」

と優しい声が響いた。

 

Gonna take a sentimental journey

Gonna set my heart at ease

Gonna make a sentimental journey

To renew old memories

Got my bag, got my reservation

Spent each dime I could afford

Like a child in wild anticipation

Long to hear that “All aboard”

Seven, that’s the time we leave, at seven

I’ll be waitin’ up for heaven

Countin’ every mile of railroad track

That takes me back

Never thought my heart could be so ‘yearny’

Why did I decide to roam?

Gotta take that sentimental journey

Sentimental journey home,

Sentimental journey!

 

帰郷の曲、センチメンタルジャーニー。

蝉の声が聞こえると思い出す。あの紳士は、今年の夏も元気でいらっしゃるだろうか?

 

(注)この物語は京都ジャズ喫茶マップ制作にあたり提供されたエピソードを種にした筆者による完全な妄想である。